子供への注意や躾けが成功するかどうかは、一瞬の気合で決まります。その瞬間を逃してしまえば、躾けの効力は半減する。千載一遇の注意は文字通り千載一遇のチャンスであって、次に遭遇する保障はどこにもない。短気は損気、という言葉だけでは太刀打ちできない現実があります。躾けるとは即座に話し合う事であります。迷惑がられても、嫌われても、こちらのサインは相手には確実に届きます。話し合いは事前の予断が恥ずかしいほど誤っていることを教えてくれますが、同時に次にすべきことも教えてくれます。話し合わなければ子供心は分かりません。
子供を叱る講師には愛情がなければならない、とよく言われます。それも真実でありますが、それだけでは不足でしょう。間違ったことをした人間や約束を破った人間が目の前にいれば、それが大人であろうと子供であろうと、戸惑いや怒りが込み上げてくるのが健常人の正義心の表れでありましょう。特に、叱る瞬間や躾ける瞬間というのは正義感が溢れる瞬間といっていい。溢れて始末に負えなくなるから身体が勝手に動いてしまうのだ。正義感が愛情に勝ってはいけない理由など何処にもない。どんなに生徒愛が強くとも物事の良し悪しがわからない講師は生徒を偏愛するか疎外するかのどちらかであります。
生徒を叱れない塾講師は至る所にいます。余程の行為をしない限り、生徒を看過するのです。善悪の判断が出来ないのは生徒だけではありません。見て見ぬふりをする講師は軽蔑の対象となって生徒の心に生き続けるでしょう。生徒は大人の佇まいを見て、愛情を感じるのみでなく、正義と不正義を学んでいくのであります。